東日本大震災から10年。震災を経験した人たちの証言から出来事を振り返る。
市中心部まで徒歩で片道5時間かかる
道ががれきでふさがれ、どこに続いているかわからない。迷いながら、何度もがれきをよじ登った。岩手県釜石市職員の三浦慎輔さんが同市箱崎町を朝に出て、徒歩で市中心部の災害対策本部に着いたのは約5時間後。日はすっかり高くなっていた。
地区の状況を伝えるとともに情報を集め、また歩いて戻る。停電していたため日没後は真っ暗になり、それまでに帰らなければならなかった。
箱崎町は、箱崎半島の箱崎、箱崎白浜、桑ノ浜、仮宿の各集落からなるが、約70人が東日本大震災の津波で犠牲になり、がれきで道路やトンネルが寸断された。箱崎出身の三浦さんは震災直後に連絡役を任され、地区と災対本部を往復した。
通信手段も明かりもない
震災発生直後、最も困ったのは通信手段がないことだった。本部にあった無線機を手に取ると、「少ないから持って行くな」と言われた。どうにか持ち帰ると、充電がほとんどなく、使えなかった。箱崎の自宅は目の前で津波に流されたが、悲しむ余裕もなかった。
ある日、妊婦が出産しそうになり、夕方に災対本部から戻った後、また本部に向かった。真っ暗闇の中を懐中電灯を頼りに歩き、本部でヘリコプターを呼んだ。そして再び箱崎に帰った。上司から「もういいんじゃないか」と言われて水産農林課の仕事に戻ったのは、約3週間後だった。
津波免れた民家で3日間集団生活を送る
箱崎町の住民は、津波を免れた家に身を寄せた。3日後に自衛隊が救助に入り、一部住民をのぞいて地区外に移るまで、孤立状態の生活を余儀なくされた。
西山登志子さんの自宅には、6畳、8畳の部屋と茶の間に、一時40人が避難した。嫁に来た時、舅(しゅうと)の父親から「津波の時はみんなうちに来る。外でたき火をして、収まるまで泊まるんだ」と聞かされた。
保管していた米は間もなくなくなり、近所の家におにぎりを作ってもらった。家の中にあったありったけの布団を集めた。「『こんなに寝具があってなにすんだべ』と思ったが、役にたつこともあるんだね」と息子から言われた。電気がついたのは1か月以上後の2011年4月20日だった。
冷凍していた魚やアワビでしのぐ
どの家も、冷凍していた魚やアワビを出して食べた。釜石東部漁協の小川原(こがわら)泉組合長も冷凍庫の魚などでしのいだ。「漁師町だから、魚を入れる冷凍庫を各家庭が持っていたのが良かった」と語る。