3・11 岩手で「あって良かった」 小学校の避難階段

岩手県は東日本大震災で6200人あまりの人が犠牲になった。あれから10年。震災を経験した人たちの証言から出来事を振り返る。

階段はできたばかりだった

完成したばかりの避難階段が、東日本大震災から子供たちの命を救った。

17mを超える津波が押し寄せた大船渡市三陸町越喜来(おきらい)地区。越喜来小学校は3階建ての校舎が津波にのまれたが、児童と教職員約80人は、4か月前にできた避難階段を使い全員無事だった。

校内放送は使えなかった

激しい揺れが起きた時、副校長の遠藤耕生(こうせい)さん(現盛岡市立仙北小校長)は校内放送をかけようとしたが、停電で使えなかった。外をみると、校舎と外をつなぐ螺旋(らせん)階段がパキッと割れた。「ただごとではない」。校舎も倒壊すると思い、教室を回って「すぐに避難しろ」と呼びかけた。恐怖で泣いている児童もいたが、全員を高台にある三陸鉄道三陸駅に向かわせた。

その際に使ったのが、校舎と山側の道路をつないでいた避難用階段だ。校舎の2階から6~7段下りる形で道路を結んでいた。

2日前にも使っていた

階段が使われるのは、この時が3回目だった。1回目は2010年の設置後間もなく。2回目は震災の2日前に起きた三陸沖を震源とする地震だった。

◆越喜来小に設置されていた避難階段のイメージ

遠藤さんは三陸駅に着くと、防災行政無線が「大津波警報が出ています」と流しているのを聞いた。後から聞くと、午後2時54分だったという。地震発生から8分で着いたことになる。正門から出ても急げば間に合ったかもしれないが、遠藤さんは「大地震で『一刻も早く逃げたい』という思いがあったので、階段があって本当に良かった」と振り返った。

階段設置は1人の問題提起から

階段が作られた背景には、越喜来小で受け継がれてきた高い防災意識もあった。同小は毎年4月に「津波教室」を開き、児童は地域のお年寄りから津波の恐ろしさを直接聞いてきた。

市内の平田大輔さんによると、階段は、市議を務めた父・武さんが「越喜来小は海から近い。いずれ津波が来るのではないか」と市にかけあって設置されたという。武さんは設置を喜んでいたが、震災9日前の3月2日に亡くなった。平田さんは「結果的に設置後すぐ震災が来た。付けていて良かった。父は問題を提起するところは徹底していた」と語った。

この記事をシェア

記事一覧をみる

防災ニッポン+ 公式SNS
OFFICIAL SNS

PAGE
TOP