大分・佐伯 地域で20m以上の津波に備えるということ

倉庫

東日本大震災直後に被害想定見直し

到達する津波は高さ約13m――。東日本大震災から約1年半後の2012年11月、大分県は南海トラフ巨大地震に伴う津波想定を再検証し、結果を公表した。佐伯市米水津(よのうづ)は検証前の約2倍、県内最大級の高さになると試算された。

「想像よりも低い」。市米水津振興局で防災を担当する増井光也さんは当時、冷静に受け止めた。東日本大震災では予測をはるかに超える津波が各地を襲った。米水津の避難所の海抜は約10m。震災直後から、高さを20m以上に引き上げる方針を固めて動いていた。

リアス式海岸の深い入り江

コバルトブルーの美しい海に臨み、カモメが飛び交う米水津。リアス式海岸の深い入り江の奥に六つの地区があり、約1700人が暮らす。

マップ

300年前の宝永地震の記録

過去、何度も津波が押し寄せた。約300年前の「宝永地震」では、養福寺の境内近く(約11m)まで達したとの古文書が残る。震災を契機に、寺にはその記録を刻む石碑が建てられた。

「この命 津波に取られて なるものか」。街中には老人会や子供会が寄せたこんな標語が至る所に掲示された。危機意識を持続させる活動が進んだ。

米水津で生まれ育ち、震災後の4月に異動した増井さんは「夜間訓練や子供たちの防災教育など積み残した課題がある。故郷を守り抜く取り組みはまだ道半ばだ」と語る。

地域が行う取り組み

「手ぶらで来ても大丈夫なよう、必要なものは準備しているよ」。六つある地区の一つ、宮野浦地区。2次避難所となる採石場跡地で、区長の浜田宗一郎さんはそばにある倉庫を指さし、胸を張った。

地区の自主防災組織「むらの覚悟」の委員長を務める。震災から半年後に発足。地区を走る北の県道、南の市道が津波で遮断され、孤立しても生き延びるという思いを会の名称に込めた。

倉庫

写真説明:2次避難所となる採石場跡地にはいくつもの倉庫が設置されている(2021年3月5日、大分県佐伯市で)

何をどのぐらい備蓄するのか

避難所では自宅に戻れず、数日間過ごす事態を想定している。「最大400人が3日間暮らせる」ことを念頭に4000食分の食料や食器、冬物衣類、発電機、持ち運べるトイレといった物資を保管している。

備品の購入は自治会費や補助金を充てた。食器や衣類は住民が持ち寄り、企業・団体からも寄贈された。「子や孫世代のため」と亡くなる直前まで倉庫の建設作業を手伝ったメンバーもいる。

消防団員

写真説明:各避難所の人数を確認する消防団員。住民約700人が参加した(2021年3月5日、佐伯市で)

震災以降、地区では避難訓練を続けている。2021年は3月5日にあり、住民約700人が参加した。訓練後、避難所の見学で子供たちがやってきた。浜田さんは缶詰に入った非常食のパンを振る舞いながら、「何か起きたら、ここに来るんだぞ」とほほえんだ。

「安心できる場所を備え、訓練を重ねて受け継ぐ」

震災から10年。国内では毎年のように災害が起き、備えの重要性が叫ばれている。深刻な津波被害が想定されている佐伯市では2020年度末に災害用備蓄物資の貯蔵庫やヘリポートなどを備えた「防災広場」が完成した。大分市も同様の備蓄倉庫を整備中で、3年後の完成を目指し、住民への説明会を始めた。

「安心できる場所を備えて訓練を重ね、受け継いでいく。その繰り返ししかないでしょう」。浜田さんの言葉には命を守る覚悟がこもっている。

(読売新聞 2021年3月13日掲載  連載「いのちを守る」中)

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