「晴れの国」の災害史(4)疫病 (連載)

写真説明:木野山神社の奥宮には神の使いとされるオオカミの石像がたたずむ(岡山県高梁市で)

コレラ対応 コロナに通ず

幕末から明治にかけて流行したコレラとの向き合い方をたどると、新型コロナウイルス感染症が広がる現代との共通点がうかがえる。

 

コレラ菌に汚染された水や食べ物を口にすることで感染する病気で、激しい下痢や吐き気を引き起こす。悪化すると脱水症状となり、死亡することもある。

 

1879年(明治12年)には全国で大流行し、岡山県内では9000人以上が感染し、死者は5000人近くに上ったという。

 

岡山市の城下町では当時、旭川や西川の水を飲料水として使用していたが、生活排水や汚水と混ざりやすく、疫病がたびたび流行したという。記録によると、県内では、明治時代が終わる1912年までに計6回の流行があり、いずれも死者は1000人を超えた。

 

◆コレラに関する岡山県内の出来事

流行する病の闇に、人々は信仰心を深めた。

 

オオカミをまつる木野山神社(高梁市津川町今津)には、「オオカミは虎(コレラ)よりも強い」と、県内だけでなく山陰地方からも多くの参拝客が訪れたとされる。同神社には、県内外の地区の住民の代表者が神社を訪れ、木札や人数分のお守りを神社から授かった記録が残っている。

写真説明:コレラ流行時の江戸の様子を描いた「安政箇労痢(ころり)流行記」の一部。運び込まれる棺が描かれている(国立公文書館所蔵)

行政も手をこまぬいていたわけではない。

 

県は、患者を発見した場合は届けるよう医師に義務づけ、県内各地の衛生担当者や警察官には消毒や患者を隔離するよう求めた。県内各地に検疫所を設けたり、隔離用病棟として「避病院」を設置した。

 

感染拡大防止のため、県民には流行地域への不要不急の訪問をやめるよう求め、大人数が集まることを禁止する通達を出した。木野山神社への大人数での参拝も控えるよう呼びかけ、学校も休校させるなどしたという。

 

粘り強い対策の上、コレラの感染が収束したのは、上下水道が開通した影響も大きい。感染症の流行で、衛生に対する認識が広がるにつれ、横浜市や北海道函館市など、全国で水道が敷設される動きが広がった。

 

1890年には、内務省衛生局の顧問として東京都などの上下水道計画に携わっていたイギリス人技師のバルトンが岡山市に招かれ、調査に携わった。その後、洪水の災害復旧で構想は一旦中断したものの、1905年に全国で8番目に水道が開通した。同年度末には7434戸、2万3370人に給水されたという。

 

県史によると、それまで毎年発生していた患者は03年以降ゼロが続くなど、大幅に減少した。

 

現代と当時では、人々の往来の規模や医療水準は全く異なるが、現代でも感染防止のため手洗いや消毒に加え「3密」の回避が求められている。移動制限や感染した人を隔離するといった対策は共通している。疫病の流行を封じる妖怪「アマビエ」が人気を呼ぶなど、未知の病に対する不安においても昔とそう変わらない。

 

当時の記録は県立記録資料館(岡山市北区)などで閲覧できる。

 

定兼学特別館長は「記録を通して、人々はいつも流行病と向き合いつづけてきたことが分かる。私たちも先人に負けないよう、たくましく生き抜きたい」と語る。

 

(読売新聞 2020年8月21日掲載)

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