3.11仙台 東京から12時間 未明の街は闇だった

館内は津波で運ばれたがれきや泥が床一面に残り、停電で電気もつかない。その中に、毛布にくるまれた無数の数の遺体が横たえられていた。家族を捜し、遺体を一体ずつ見て回る人。冷たくなった母親の顔にこびりついた泥を、声をかけながらハンカチで拭く初老の男性。そんな光景を前に、とてもカメラを向けることはできなかった。

外に出て津波に流された家々の方へ向かうと、足に包帯を巻き、つえをつきながら歩く中年の女性がいた。年老いた母親と共に自宅にいて津波に襲われ、家が崩れてけがをしたという。「母親は亡くなった」と号泣しながら語る。遺体はまだ壊れた家の下にあるが、捜索の手が足りず、そのままになっていた。女性は「早く出してあげたいのに」と訴える。だが、私には、話を聞き、近くにいた自衛隊員にそのことを伝えることしかできなかった。

小学校の避難所には、多くの住民が避難していた。皆、疲れ切った表情だった。被災時の話を聞いているときに、「息子は(遺体となって)体育館の中にいる」と話したきり黙り込み、涙を見せまいと帽子を深くかぶり顔を隠す男性もいた。これまで様々な事故、事件の現場を取材したが、これほど多くの人の死や、残された人々の悲しみを目の当たりにした経験はなかった。

写真説明:宮城県東松島市の野蒜地区では自衛隊員による行方不明者の捜索が続いた(2011年3月13日、筆者撮影)

野蒜地区の人口は4400人程度。私がこの日で見た被害は、今回の震災で起こった一部のことでしかないはずだった。だが、目の前にある人の死や、被害のあまりの大きさに、記事をどう書いても、足りない気がした。ただ見たもの、聞いたことを書くことしかできない。そんな現状に歯がゆささえ感じていた。

その後、私は被災地に3回足を運んだ。いまだ片づかないがれきの山、避難所や仮設住宅で不便な生活を強いられている人々。被災者の悲しみや苦しみは今も続き、取材のたびにその深刻さが伝わる。だが、そうした場面に直面するたびに、限られた字数の中で、自分たちは被災者の心情を伝えきっているのかという疑問を払拭することができない。これからも続く震災報道の中で、私はきっとその疑念を持ち続けるだろう。

 

「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」社会部・山田滋(P57~60)

※)「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」は読売新聞社が東日本大震災の取材にあたった読売新聞記者77人による体験記をまとめ、2011年11月に出版した。2014年2月に同タイトルで中公文庫となり、版を重ねている。

東日本大震災・読売新聞オンライン

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