3.11気仙沼 濁流がメキメキと音をたてて迫った

写真説明:宮城県気仙沼市を襲った津波は水産加工施設や家屋、車を次々と押し流した(2011年3月11日午後3時32分、気仙沼中央公民館から中根圭一撮影)

東日本大震災報道に携わった読売新聞記者たちが「あの日、あの時」報道の裏側で経験したことを、秘蔵していた当時の写真とともに紹介します。

読売新聞社著 「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」(中央公論新社・2011)の東北総局気仙沼通信部・中根圭一執筆分を一部修正し写真を追加

孤立した公民館で43時間を過ごして(上)

3月11日。この日は一生で忘れもしない日になるだろう。黒い海は尊い命と街をことごとく奪い、被災した気仙沼市民はそれまでの暮らしを失った。そこに住み取材を続ける私もその1人となり、逃げ込んだ先の避難所で周りを海で囲まれながら、2晩をそこで住民とともに過ごすことになった。

午後2時46分頃、宮城県気仙沼市内のアパート2階にある気仙沼通信部で原稿を書こうとした時、体が突き上げられるような激しい揺れに襲われた。部屋の電灯やテレビは消え、取材資料などが並ぶ本棚が倒れてくる。外を見れば、電柱が細いこんにゃくのようにぶるぶると揺れ、下校途中の児童が路上で悲鳴を上げながらしゃがみこんでいた。

「地震が来たら、津波が来る」。2010年6月に気仙沼通信部に赴任してから、当時、気仙沼市危機管理課長を務めていた佐藤健一さんや、近所で毎年避難訓練を主催する内海勝行さんらが口にしていた言葉を思い出した。市内を流れる大川の河口にある通信部も津波にのみ込まれてしまうかもしれないと直感した。

揺れが収まると、ノートパソコンやメモ帳をリュックに詰め、一眼レフカメラを肩に担ぎ、足の踏み場もない通信部の部屋を飛び出した。車で向かった先は、気仙沼湾まで約300mの所にあり、魚市場や水産加工場が立ち並ぶ中にある3階建ての気仙沼中央公民館。内海さんを2月に取材した際、この公民館が避難所に指定されていることを知った。海も眺められ、津波の報道写真を撮るには都合がよい建物だ、とその時は思った。

公民館2階屋上まで階段を駆け上がった。隣接する一景島保育園から我が子を抱えて避難してきた親、着の身着のまま逃げ込んだお年寄り、水産加工場から作業着姿のままやってきた中国人従業員などが身を寄せていた。私はそれぞれが地震をどう感じたのか取材し、メモを取っていた。

その時だ。

「おーい、津波だ! 津波が来たぞー」。男性の叫び声が聞こえた。

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