3.11気仙沼 濁流がメキメキと音をたてて迫った

避難した約450人は、さらに高い波がくるのではと思い、3階屋上へ非常用はしごで登っていった。すると、今度は雪が降ってきた。雪は容赦なく我々を凍えさせた。

かじかむ手をポケットに突っ込み、じっとしていると、「助けてくれー」と男性の叫ぶ声がした。水面に漂う廃材や金属片などの中を注視すると、損壊した家屋の木片に両腕でつかまっている中年男性がいた。津波の引き波で沖の方へ流されながらも、何とか海面から顔を出し、助けを求めている。海に飛び込もうか。いや、沖に流されてしまう。助けに行ける者はいなかった。他にも沖へ流される人を数人見つけたが、ぼう然と見つめることしかできなかった。「何とか助かってくれ」。心の中でそう願うのが精いっぱいだった。

写真説明:津波を避け、気仙沼中央公民館の屋上に避難した住民たちを容赦なく雪が襲った(2011年3月11日午後4時16分、筆者撮影)

日が沈むと一段と冷え込んだため、物置部屋や調理室などが入る2階屋上の小部屋の中に入った。午後6時前だったと思う。気仙沼湾で火災が発生した。流された石油タンクから漏れ出た油が湾一面に広がり、対岸の大浦、小々汐(こごしお)地区周辺で何かの拍子に引火したようだった。火は一気に広がり、辺りは「火の海」と化した。

写真説明:炎が広がった気仙沼湾。ボンッ、ボンッという爆発音が鳴り続けた(2011年3月11日午後5時56分、筆者撮影)

流されたガスボンベにさらに引火し、ボンッ、ボンッと爆発音が鳴り続ける。真っ黒い煙を上げながら、こちらに迫ってきて、付近の建物が次々と燃えていった。「公民館にも火が付いたら焼け死んでしまう」「せっかく津波から助かったのに」。幸い、公民館には引火しなかったが、風に舞った煤(すす)で避難者の顔や手は黒く染まった。一晩中、祈るような思いで助けを待つしかなかった。

写真と原稿は、かじかむ手でパソコンをたたき、東北総局へ送信した。だが、携帯電話は地震発生から数回しかつながらず、午後10時40分頃からは通話不能に。携帯電話の中継基地が被災したためだった。辺り一面が海となって避難所に閉じ込められ、通信手段もない。気づけば私も被災者の一人になっていた。(つづく)

 

「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」東北総局気仙沼通信部・中根圭一 ( P20~23)  

※)「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」は読売新聞社が東日本大震災の取材にあたった読売新聞記者77人による体験記をまとめ、2011年11月に出版した。2014年2月に同タイトルで中公文庫となり、版を重ねている。

東日本大震災・読売新聞オンライン

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