3.11気仙沼 一夜明けた町はSF映画のようだった

写真説明:宮城県気仙沼市で避難者を救助する東京消防庁のヘリ(2011年3月12日午前、中根圭一撮影)

東日本大震災報道に携わった読売新聞記者たちが「あの日、あの時」報道の裏側で経験したことを、秘蔵していた当時の写真とともに紹介します。

読売新聞社著「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」(中央公論新社・2011)の東北総局気仙沼通信部・中根圭一執筆分を一部修正し写真を追加

孤立した公民館で43時間を過ごして(下)

この夜は、物置で背中を丸め、足を抱えて座ったまま眠った。寒さをしのぐのに、防災用にしまってあった硬くて薄い毛布を引っ張り出し、1枚を3、4人で使った。コンクリートで底冷えする床。段ボールの切れ端を敷く人もいたが、床の冷たさに耐えきれず、立って眠る人もいた。私は前日に取材先からもらった資料を尻に敷いて寒さをしのいだ。

公民館の職員らが10円玉ほどの大きさの非常食用のクラッカーを配った。1缶を5人ほどで分けると、数枚しか食べられなかった。飲める水もなかった。用を足すにも便器ががれきで埋まり、階段で済ませた。余震が多く、1時間に1回ほどは揺れで眠りから覚めてしまう。

写真説明:津波避難ビルの気仙沼中央公民館で余震が襲うなか、夜を過ごす住民たち(2011年3月11日午後10時9分、筆者撮影)

築27年と決して新しくない公民館は、断続的に襲う余震や津波で倒れないかと不安で仕方がなかった。外では、押し波と引き波で海上を漂う炎が、損壊した建物とがれきの山を赤く照らしていた。夜空を見上げると、停電で街から明かりが消えたせいか、星がいつになくきらめいていた。地上と空のギャップが切なかった。「夢であってくれ」。そう願いつつ、両隣の人と肩を寄せ合い、体を温めて一夜を明かした。

一夜明けたらSF映画のよう…

翌12日朝、陽が昇ると、外はがれきの山、山、山。SF映画でも見ているような気もしたが、現実には何百人、いやそれ以上の人が流され、犠牲になったのだと覚悟して受け入れるしかなかった。

写真説明:津波が押し寄せてから一夜が明けると、あたりはがれきの山だった(2011年3月12日午前6時10分、筆者撮影)

午前中には、東京消防庁の救助ヘリコプターがやってきた。「これで帰れる」と期待したが、ヘリが着陸できる場所はなく、1人ずつロープでつり上げられた。午後から航空自衛隊のヘリも加わったが、病人や子ども、お年寄り約50人が優先され、残った約400人は2夜目を過ごすことになった。この日の夕食はビスケットひとかけら。ヘリはペットボトル数本の水を落としていったが、私が受け取った水はなめる程度だった。それも、隣のお年寄りが「脱水症状を起こしそうだ」と訴えていたため、差し出した。

「もう倒れてもおかしくない。限界だ」。

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