3.11大船渡 甚大な被害を受けた町で妻を探した

写真説明:東日本大震災で甚大な津波被害を受けた岩手県大船渡市中心部。津波は地震発生の30分後から断続的に襲い、市内で高さ40.1mが観測された地点もある(2011年3月12日、吉田拓矢撮影)

東日本大震災報道に携わった読売新聞記者たちが「あの日、あの時」報道の裏側で経験したことを、秘蔵していた当時の写真とともに紹介します。

読売新聞社著 「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」(中央公論新社・2011)の盛岡支局大船渡通信部・吉田拓矢執筆分を一部修正し写真を追加

県内陸部で業務中 沿岸部の留守宅は…

「今日の帰りは日付が変わるかもしれません。北上支局で教員と県職員の人事の照合作業がありますので」

3月11日正午、そう妻に告げ、大船渡通信部を出発した。盛岡支局員はこの日、県の人事異動の紙面を作るため、ほとんどのメンバーが午後2時に、盛岡支局と北上支局に集まった。

この日は朝から、大船渡市で複数の漁業者を取材した。2日前の9日、三陸沖を震源とするマグニチュード7・3の地震が発生し、カキやホタテなどを育てる養殖施設に被害が出ていた。妻に敬語を使ったのは、この余震を警戒し、12、13日に予定していたスキー旅行をキャンセルしたからだった。怒る妻に申し訳なく、わびながら出発した。

北上支局に到着する直前、コンビニで弁当を買い、車中で昼食を取った。照合作業が深夜に及ぶことも想定し、腹を満たした。照合作業を始めて間もなく、北上支局にいた4人の携帯から一斉に異様な音が鳴った。テレビは緊急地震速報を伝えた。

「宮城沖で地震発生」。ゆっくりとした横揺れが始まった。徐々に激しさを増す。4人全員がとっさに机の下に隠れた。揺れはどんどん強さを増す。止まらない。「宮城県沖地震がとうとう起きてしまった」。そう直感した。盛岡支局からの指示で、釜石市に向かった。

カーナビのテレビは、東京都内の火災、ビルの外に飛び出す人々を映していた。そして間もなく、「10m以上です」と叫び始めた。「とんでもないことになるかもしれない」。そう思いながら車を走らせると、3月5日に取材したばかりの釜石魚市場の映像が流れた。港内が浸水し、トラックが流れ始めていた。「どうなってるんだ」。思わず独り言を吐きながら、妻のことがどんどん気になり始めた。地震発生直後、携帯電話に電話をかけたのにつながらなかった。1時間たっても一向につながらない。

「大船渡は壊滅した」

「通信部まで津波は来ないだろう」「来ても向かいの高台の神社に避難して無事だろう」。そう信じて、午後5時頃、釜石市に入った。しかし、中心部への道は通行止めだった。パトカーが「市街地は水没している模様。遠野側へ避難誘導せよ」と叫び続けていた。携帯電話、固定電話、公衆電話、すべての通信手段も絶たれていた。同市に隣接する内陸の遠野市に向かい、峠を越えると、電波が通じてメールが一斉に入ってきた。でも、盛岡支局や妻に電話してもつながらなかった。公衆電話もだめだった。

どうしたものか思慮していると、同じように岩手県の沿岸南部を拠点とする他紙記者に会った。地震発生時、大船渡市にいたといい、「大船渡は壊滅した」といつもは冷静で穏やかな彼が興奮気味に言った。「うちは大丈夫か」と聞くと、「お宅よりも300mくらい先まで津波が来ている。ダメだ」と返ってきた。血の気が引いた。

彼と別れ、遠野市に向かう車内で、テレビが大船渡市での行方不明者を読み上げた。一人ひとりの名前が読まれる度に「やめてくれ」と叫んだ。妻の名前が無いことに一安心したが、心臓が張り裂けそうだった。

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