3.11大船渡 甚大な被害を受けた町で妻を探した

夜明けを待たず大船渡に向かった

盛岡支局からのメールの指示で、遠野市では販売店の所長をってに、今後の取材拠点とすべきホテルを確保した。そのまま宿泊することになったが、一睡もできない。「大船渡に妻を捜しに行く」。販売店の固定電話から盛岡支局に伝えると、まずは安否確認を最優先するように指示され、まだ暗い中、大船渡市に向け出発した。妻の実家にも電話を入れ、迎えに行くことを伝えた。だが、内心では妻の死を覚悟していた。「ご両親になんと説明すればいいのか」。そればかり考えていた。

3月12日午前9時過ぎ、大船渡市にたどり着き、まずは取材で出入りしている大船渡警察署に妻の安否を尋ねた。「妻と連絡が取れないが、無事かわかるか」。普段はにこやかで、妻のことも知っている副署長が厳しい表情で答えた。「全くわからない。それどころか、あなたも行方不明者に入っている。死体がボンボン揚がって、情報収集できていない」。警察で把握していないならば市役所も駄目だろうと判断し、自分の足で避難所を回り始めた。

通信部から500mほど山側の公民館では、なじみの居酒屋のおやじと再会し、まず互いの無事を喜んだ。しかし、妻はここには来ていなかった。

写真説明:大船渡通信部から500mほど山側にある大船渡地区公民館。多くの住民たちが集まっていたが、妻の姿はなかった(2011年3月12日、筆者撮影)

次に、通信部前の高台にある神社に向かい、その途中、妻の働いていたカンピョウ工場の社長らに会った。「奥さんともう1人だけが、安否確認できていない」。何か所も避難所を回ってくれている最中だった。神社に行くには、がれきが埋め尽くした川を渡り、裏手から行くしかないと聞き、歩を進めた。

神社では地元紙記者と再会した。私と同様に警察の行方不明者リストに入っている記者だった。市中心部の5階建てスーパーの屋上から津波を撮影し、朝、自力で脱出したのだという。神社にも妻の姿はなく、2010年2月のチリ地震の大津波警報で妻が逃げ込んだ小学校に向かった。駐車場には津波で流された車が重なり合い、校舎も浸水した痕跡がうかがえる。「どこに行ったんだ」。妻はここにも避難した様子はなく、徐々に焦りが強くなる。「本当に死んだのか」。ほかに通信部近くの避難所は更に高台にある中学校しかなかった。

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