【記者コラム】原発事故を伝え続けること

写真説明:東京電力福島第一原発。敷地南側にはタンクが林立する(福島県大熊町で2020年11月15日、本社ヘリから)

中央制御室には運転員苦闘の跡があった

東京電力福島第一原子力発電所(福島県大熊町、双葉町)を5年ぶりに取材した。

炉心が溶融した1、2号機の中央制御室に入った。背の高い制御盤の表面に「+50センチ」といった手書きの数字が残る。電源を失い真っ暗な室内で懸命に書き付けた原子炉水位のデータだ。スイッチ類には炉心の冷却装置を起動した形跡もあった。現場の運転員の苦闘を見た気がした。

2011年3月の東日本大震災と原発事故から間もなく10年になる。当時の記憶は鮮明だ。3月11日夜、国の原子力緊急事態宣言を受けて東京を出発し、12日早朝、大熊町に着いた。目にしたのは想像を超える混乱だった。

想像を超える混乱

原発近くのオフサイトセンター(事故対応拠点)は、道路寸断と通信不良、停電などの影響で、国、自治体、東電などの要員や情報が十分集まらず、現地対策本部としてほとんど機能しなかった。町の体育館では、着の身着のままの住民が、行き先の分からない避難バスに乗るようせかされ、列をなした。

原子炉圧力を下げるため、汚染した蒸気を放出する「ベント」が迫り、放射線を測る線量計が手元にないことに不安を感じた。国道は避難の車で渋滞した。ようやく町の外に出た頃、1号機の建屋が水素爆発を起こした。その後、2、3号機も損傷し、大量の放射性物質が拡散した。

いまも約3万7000人が避難

福島の避難者は一時16万人を超えた。津波の被害はなかったのに住み慣れた故郷や生業(なりわい)を失った人。長期化した避難生活で体を壊した人。汚染や補償を巡る偏見に苦しんだ人。今も帰還困難区域がある大熊、双葉、浪江町などの約3万7000人が避難する。

双葉町に昨秋できた東日本大震災・原子力災害伝承館で、語り部の女性(56)は来館者に、7人家族がバラバラに暮らした避難生活の体験を明かし、「普通に自分の家で暮らせることがどんなに幸せか」と話す。大熊町の元の自宅に戻ることはあきらめた。

史上最悪の「レベル7」の原発事故がもたらした厳しい現実と向き合う時、事故10年は、多くの人にとって、当たり前の日常を取り戻す途上の通過点にすぎないと思い知らされる。

復興の行方を左右する廃炉は本当に国と東電の計画通り、残り30年以内に終わるのか。難関の溶融燃料の回収や、増え続ける処理水問題の解決はこれからだ。中間貯蔵施設で保管する汚染土の最終処分の見通しも不透明だ。

10年前に原発事故を直接取材した記者は年々少なくなる。復興と廃炉の長い道のりを見届け、「安全神話」が招いた事故の教訓を未来に伝える責任をどう果たしていくか。私たちも問われている。

 

(読売新聞 2021年1月10日掲載 科学部・佐藤俊彰)

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