トッド氏が語る震災10年「復興と人口減抑制は不可分」

東日本大震災から10年。この大惨事から私たちは何を学び、何が変わったのか。被災地に寄り添ったフランスの歴史人口学者、エマニュエル・トッド氏(=写真、すべて編集委員・鈴木竜三撮影)に想(おも)いを聞いた。

震災は日本が大切だと気付いた契機でした

「3・11」に驚がくし、日本の友人らの身を案じ、不安を覚えました。フランス、英国、イタリアという私の愛する国が災厄に遭ったかのようでした。私にとって日本が大切だと気づいた契機でした。

書斎派の私が5か月後の被災地を訪れた…

5か月後に東北を訪れます。日本の出版人らの誘いに応じました。そのことに我ながら驚いた。私は書斎派で、元来冒険は好みません。被災地を見舞うことで日本に友情を示したかったのかもしれません。

 

青森から南相馬まで1週間で巡って感じたこと

ねぶた祭に沸く青森市から三陸海岸に抜け、福島県南相馬市まで1週間かけて被災地を巡りました。

破壊された家々に日用品が放置されていた。ある家の壁に書き込みがある。「撤去しないで。家族の写真が中にあります」。津波が町々をのみ込み、写真の家族を含む、幾多の人々をさらってゆく。不意にその光景が心に浮かび、恐怖と悲痛を感じました。

 

漁師や美容師など様々な人に話を聞きました。津波を前に動こうとしない老いた父を抱きかかえ、間一髪逃げたと証言してくれた人もいた。避難所も回りました。被災者らは大切な人や何かを失い、悲しみを抱えていたはずですが、私のような闖入(ちんにゅう)者にも優しく応対してくれました。

被災地で初めて日本の庶民と出会った

被災地で初めて日本の庶民に出会いました。それまでは官僚や学者などエリート層とだけ付き合っていた。秩序・組織・清潔を好む集団です。対照的に庶民は人間くさく、女性は堂々としていた。フランス人に近いと感じました。

福島第一原発から約25kmの南相馬市内は放射線量は安全圏内でしたが怖かった。住民の過半数は不在でした。見えない脅威を肌で感じた。

3・11を「敗戦」とする声に対しては…

原発の安全神話の瓦解を含め、3・11を太平洋戦争の敗北に続く「敗戦」とする声もあると聞きます。

私はそうは思わない。

戦後、驚異の復活を遂げた「無敵」の日本が失墜したのは1990年代初めのバブル崩壊です。日本は米国に追いつき・追い越せを標語に、右肩上がりの成長を続けた。金満になり、米国を追い越そうとした矢先にバブルがはじけ、弱点である硬直性を露呈した。日本単独では未来を創れないこと、新しい世界像を示せないことが判明した。日本の転換点でした。

これは中国が将来直面する事態でしょう。中国は米国と肩を並べたと思った途端に挫折するはずです。

日本はバブル崩壊後、謙虚になりました。成長は停滞しますが、科学技術の競争力を維持し、先進国・経済大国にとどまった。強靱(きょうじん)さを身につけたのです。

3・11でも強靱さを示した。初動では混乱や過ちもあったのでしょうが、取り乱すことはなかった。

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